介護生活の難しさについて
介護生活は、介護対象者が近親者であったとしても、とても大変なことです。
私も、母と共に、脳内出血によって右半身全廃となった父の介護手伝いと仕事を両立しておりました。
特に母は24時間家にいる為、父を病院に連れて行ったり、介護の世話をしたり、言葉では到底言い尽くせないような苦しい生活となっていました。
介護負担が軽い要介護レベルが1~3程の間は、右半身全廃であっても、認知力は衰えていないので、動作の補助さえあれば、大丈夫でした。
しかし、2度目の脳内出血を併発し、認知力が徐々に衰え、ついに要介護レベルが5となってからは、トイレのお世話に至るまで、過酷な介護負担となっていきました。
オムツをずらして、ベッドを汚してしまうことも多々あり、母の精神状態は極限に達したことで父へ感情をぶつけたこともありました。
結局、4年前に、衰弱によって入院した病院で亡くなりましたが、介護疲れによって、母の健康状態は、ボロボロでした。
仕事をして、家を支えている私に多大な負担が及ばないように、支えてくれていたことが原因だったことは言うまでもありません。
私は、母を守らねばならないと思い、今も一緒に生活をしながら、支え合って生活をしています。
そんな経験をした私が最近、元ドロンズ大島さんの記事を拝見し、やはり私や母と同じような経験をしている方がいるのだと改めて
再認識いたしました。家庭状態によっては、介護生活がどのようなものか、身近に思われない方もいらっしゃるかと思いますが
介護生活がどのような現実的課題を抱え、介護している側もされている側も地獄なのか是非とも知っていただきたいと、強く思いました。
元ドロンズ大島「借金、糞尿まみれ…」地獄の介護生活を告白
以下yahoonニュースより抜粋
”
「母の介護中は、それにかかりきり。芸能界の仕事はほとんどできず、日雇いの引っ越しバイトやコールセンターのバイトでなんとか食いつなぐしかありませんでした」
こう語るのは、’96年に『進め!電波少年』(日本テレビ系)の“南北アメリカ大陸横断ヒッチハイクの旅”でブレークした、元ドロンズの大島直也(46)。その後の半生は、まさに波瀾万丈。芸能界の外で始めた飲食店経営は大成功したものの、その後は一転、離婚・借金・親の介護と試練の連続だった。
「一昨年末、突然、母から電話が来て『病院の検査に引っ掛かったから来てくれないか』と。それで母の病院通いに付き添って、何回目かの検査でとうとう“ステージ4”、末期の肺がんと診断されました。すでに腰骨に転移していました。別居していた僕は、母と一緒に暮らすことにしたんです。当初は、母も僕と買い物ができるほど元気だったんですが、だんだんできることが少なくなって、母の精神のバランスが崩れていきました。がんになったショックから“反応性うつ病”になって……。あのころがいちばんきつかった。ある日の朝、『何時に帰って来るの?』と聞かれました。『遅くなるよ』と言ったら『帰ってきたら、死んでるかもしれないから』って。僕はブチ切れて『そんなこと言われてどんな気持ちになるかわかってんの!』と母に顔を近づけて怒鳴り、手は出せないから代わりに床をドンと叩いたりしてしまった。後から、もっと母の気持ちを理解してあげればよかったと自己嫌悪に陥りましたが……」(大島・以下同)
母親は、感情の波が激しくなっただけでなく、次第に体の痛みで起き上がることもできなくなっていった。
「入院するレベルと言われましたが、病院に空きがなくて。でも、もう自分でトイレも行けないし、おむつを自分でずらしちゃうんです。僕におむつを替えられるのが嫌だったのかもしれません。部屋は糞尿まみれになって、家に帰ると便の臭いがツーンときて。これが毎日続くのかと気持ちが重くなりました」
母親の年金や、兄からの援助はあったが、母の介護で働けない分、増えたのは借金の額。現在は「だいぶ減った」と言うが、まだ200万円ほど残っているという。そんなさなかの今年4月、母の容体が急変する。
「5月に、“余命3カ月”と宣告されて覚悟しました。でも、それでやさしくなれたというか、一緒にいる時間を大切にしようと、2日に1回は施設まで会いに行っていました。会話もだんだんできなくなり、寝ている母の手を握っていました。どうしたら喜んでもらえるかと、おふくろの誕生日に僕の子どもを連れていったり。まだ、元気なころの母は介護士さんに『知ってる? うちの息子』と自慢してたらしい。それを聞いて、うれしかったですね。亡くなる間際も、『買い物に行かなきゃ。直也のご飯作らなきゃ』って。こんな状態でもまだ僕のことを心配している……切なかったです」
7月に入り、母は水も飲めない状態に。大島は「葬儀屋さんを探してください」と施設から言われてしまう。
「めちゃくちゃつらかったですね。精神的におかしくなりました。葬式の準備をしながら、母の面倒を見ている矛盾。まるで2人の自分がいるようで、引き裂かれる思いでした」
7月8日、危篤の知らせが来た大島は、遠くから駆けつけた姉と共に施設の母の元へ。
「数日間、施設に寝泊まりし、たまたま廊下で電話して部屋に戻ったら、もう息を引き取っていました」
”
介護生活を確立するには、家族だけでなく、親族の協力も必要です。私の場合、上に、二人の姉と兄がいますが兄弟を含め、親戚の協力さえ、一切得られませんでした。
このように孤立無援にさらされた中で、介護生活を維持するのは地獄のようなものです。
この記事をみて、皆さんに「介護」を取り巻く現実を、思い感じていただければ幸いです。
10月 29 2017
介護生活の難しさについて
介護生活の難しさについて
介護生活は、介護対象者が近親者であったとしても、とても大変なことです。
私も、母と共に、脳内出血によって右半身全廃となった父の介護手伝いと仕事を両立しておりました。
特に母は24時間家にいる為、父を病院に連れて行ったり、介護の世話をしたり、言葉では到底言い尽くせないような苦しい生活となっていました。
介護負担が軽い要介護レベルが1~3程の間は、右半身全廃であっても、認知力は衰えていないので、動作の補助さえあれば、大丈夫でした。
しかし、2度目の脳内出血を併発し、認知力が徐々に衰え、ついに要介護レベルが5となってからは、トイレのお世話に至るまで、過酷な介護負担となっていきました。
オムツをずらして、ベッドを汚してしまうことも多々あり、母の精神状態は極限に達したことで父へ感情をぶつけたこともありました。
結局、4年前に、衰弱によって入院した病院で亡くなりましたが、介護疲れによって、母の健康状態は、ボロボロでした。
仕事をして、家を支えている私に多大な負担が及ばないように、支えてくれていたことが原因だったことは言うまでもありません。
私は、母を守らねばならないと思い、今も一緒に生活をしながら、支え合って生活をしています。
そんな経験をした私が最近、元ドロンズ大島さんの記事を拝見し、やはり私や母と同じような経験をしている方がいるのだと改めて
再認識いたしました。家庭状態によっては、介護生活がどのようなものか、身近に思われない方もいらっしゃるかと思いますが
介護生活がどのような現実的課題を抱え、介護している側もされている側も地獄なのか是非とも知っていただきたいと、強く思いました。
元ドロンズ大島「借金、糞尿まみれ…」地獄の介護生活を告白
以下yahoonニュースより抜粋
”
「母の介護中は、それにかかりきり。芸能界の仕事はほとんどできず、日雇いの引っ越しバイトやコールセンターのバイトでなんとか食いつなぐしかありませんでした」
こう語るのは、’96年に『進め!電波少年』(日本テレビ系)の“南北アメリカ大陸横断ヒッチハイクの旅”でブレークした、元ドロンズの大島直也(46)。その後の半生は、まさに波瀾万丈。芸能界の外で始めた飲食店経営は大成功したものの、その後は一転、離婚・借金・親の介護と試練の連続だった。
「一昨年末、突然、母から電話が来て『病院の検査に引っ掛かったから来てくれないか』と。それで母の病院通いに付き添って、何回目かの検査でとうとう“ステージ4”、末期の肺がんと診断されました。すでに腰骨に転移していました。別居していた僕は、母と一緒に暮らすことにしたんです。当初は、母も僕と買い物ができるほど元気だったんですが、だんだんできることが少なくなって、母の精神のバランスが崩れていきました。がんになったショックから“反応性うつ病”になって……。あのころがいちばんきつかった。ある日の朝、『何時に帰って来るの?』と聞かれました。『遅くなるよ』と言ったら『帰ってきたら、死んでるかもしれないから』って。僕はブチ切れて『そんなこと言われてどんな気持ちになるかわかってんの!』と母に顔を近づけて怒鳴り、手は出せないから代わりに床をドンと叩いたりしてしまった。後から、もっと母の気持ちを理解してあげればよかったと自己嫌悪に陥りましたが……」(大島・以下同)
母親は、感情の波が激しくなっただけでなく、次第に体の痛みで起き上がることもできなくなっていった。
「入院するレベルと言われましたが、病院に空きがなくて。でも、もう自分でトイレも行けないし、おむつを自分でずらしちゃうんです。僕におむつを替えられるのが嫌だったのかもしれません。部屋は糞尿まみれになって、家に帰ると便の臭いがツーンときて。これが毎日続くのかと気持ちが重くなりました」
母親の年金や、兄からの援助はあったが、母の介護で働けない分、増えたのは借金の額。現在は「だいぶ減った」と言うが、まだ200万円ほど残っているという。そんなさなかの今年4月、母の容体が急変する。
「5月に、“余命3カ月”と宣告されて覚悟しました。でも、それでやさしくなれたというか、一緒にいる時間を大切にしようと、2日に1回は施設まで会いに行っていました。会話もだんだんできなくなり、寝ている母の手を握っていました。どうしたら喜んでもらえるかと、おふくろの誕生日に僕の子どもを連れていったり。まだ、元気なころの母は介護士さんに『知ってる? うちの息子』と自慢してたらしい。それを聞いて、うれしかったですね。亡くなる間際も、『買い物に行かなきゃ。直也のご飯作らなきゃ』って。こんな状態でもまだ僕のことを心配している……切なかったです」
7月に入り、母は水も飲めない状態に。大島は「葬儀屋さんを探してください」と施設から言われてしまう。
「めちゃくちゃつらかったですね。精神的におかしくなりました。葬式の準備をしながら、母の面倒を見ている矛盾。まるで2人の自分がいるようで、引き裂かれる思いでした」
7月8日、危篤の知らせが来た大島は、遠くから駆けつけた姉と共に施設の母の元へ。
「数日間、施設に寝泊まりし、たまたま廊下で電話して部屋に戻ったら、もう息を引き取っていました」
”
介護生活を確立するには、家族だけでなく、親族の協力も必要です。私の場合、上に、二人の姉と兄がいますが兄弟を含め、親戚の協力さえ、一切得られませんでした。
このように孤立無援にさらされた中で、介護生活を維持するのは地獄のようなものです。
この記事をみて、皆さんに「介護」を取り巻く現実を、思い感じていただければ幸いです。
By 椎名町インフォメーション管理人 • 気まぐれぶらり日記(ブログ) • 0